大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和62年(オ)311号 判決 1992年7月14日

上告人

平澤貞通

右訴訟代理人弁護士

遠藤誠

被上告人

右代表者法務大臣

田原隆

右指定代理人

中川清秀

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人遠藤誠の上告理由第一、第二及び第六点について

死刑の確定裁判を受けた者が刑法一一条二項に基づき監獄に継続して拘置されている場合には、死刑の時効は進行しないものとと解するのが相当である(最高裁昭和六〇年(ク)第二五六号同年七月一九日第一小法廷決定・裁判集民事一四五号二七一頁)。けだし、刑の時効は刑の言渡が確定したのち一定の期間その執行を受けないことによって完成するが(同法三二条)、刑法一一条二項所定の拘置は死刑の執行行為に必然的に付随する前置手続であるから、死刑の確定裁判を受けた者が右規定に基づいて拘置されている間は、確定裁判の執行が継続中の状態にあるものとして、死刑の時効は進行しないものと解されるのであり(同法三二条にいう「其執行」とは、「刑ノ言渡ノ執行」すなわち「刑を言い渡した裁判の執行」の意味に解すべきである)、また、死刑の確定裁判を受けた者が右規定に基づき拘置されている場合には、刑の時効が認められた制度の趣旨は妥当しないものと考えられるからである。これと同旨の原審の判断は正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、時効の停止の制度(同法三三条参照)が存在することから、また、刑法一一条二項所定の拘置が時効の中断事由(同法三四条参照)として規定されていないことから、死刑の確定裁判を受けた者が拘置されている間も時効が進行する旨主張するが、刑法三三条は、確定裁判の執行が法令により猶予され又は停止された期間内は時効が進行しないことを明らかにしたにとどまるというべきであり、また、刑法一一条二項所定の拘置を時効の中断事由として定めなければならない理由もなく、これが時効の中断事由として規定されていないことは、何ら前記解釈の妨げとなるものではない。右論旨を含め、所論はいずれも独自の見解に基づいて原判決の違法をいうものにすぎず、採用することができない。

同第三点について

所論は違憲をいうが、その主張するところは、刑法一一条二項の規定に基づいて拘置されている者に刑の時効の完成が認められないとすることは、逃亡した者に刑の時効が認められることと対比して均衡を失するという観点から、上告人(亡平澤貞通)につき刑法三二条の規定が適用されるべきことをいうものであって、その実質は、刑の時効に関する法令の解釈適用についての原審の判断の誤りをいうものにすぎない。前示のとおり、右の点についての原審の判断は正当であって、原判決に所論の違法はない。論旨は採用することができない。

同第四点について

刑法一一条二項指定の拘置は、死刑の執行行為に必然的に付随する前置手続であって、死刑の執行に至るまで継続すべきものとして法定されている。したがって、所論のような拘置の後に死刑を執行することは、当裁判所大法廷の判例(昭和二二年(れ)第一一九号同二三年三月一二日大法廷判決・刑集二巻三号一九一頁、昭和二六年(れ)第二五一八号同三〇年四月六日大法廷判決・刑集九巻四号六六三頁)の趣旨に徴すれば、憲法三六条にいう残虐な刑罰に当たらないことが明らかというべきである(前掲最高裁昭和六〇年七月一九日第一小法廷決定)。原判決に所論の違法はない。その他、記録によって認められる本件訴訟の経緯に照らすと、原審が所論釈明権の行使をしなかったことにも違法はない。論旨は採用することができない。

なお、原審の確定した事実関係によれば、上告人は死刑判決決定後、昭和三〇年六月二二日の再審請求を最初として、原審口頭弁論終結時までに一七回の再審請求及び五回の恩赦出願をし、右再審請求及び恩赦出願の結果、その手続の行われている期間を除く右死刑判決確定後の期間はわずか八二日間にすぎなかったというのであるから(旧刑訴法五三八条、現行刑訴法四七五条参照)、右のような事実関係の下においては、上告人に対する拘置が相当の長期間に及んだことにもやむを得ない事情があったものといわなければならない。

同第五点について

旧刑訴法四九六条ただし書(現行刑訴法四四二条ただし書)は、検察官は再審の請求についての裁判があるまで刑の執行を停止することができる旨を規定しているが、再審の請求があった場合に刑の執行を停止するかどうかは、検察官が諸般の事情を考慮してその裁量に基づいて決定すべきものであるから、上告人が再審の請求をしている間、検察官が上告人に対する刑の執行(拘置を含む)の停止の措置を採らなかったからといって、上告人に対する刑の執行が違法となるべき理由はない。右刑の執行が違法であることを前提とする所論違憲の主張は、その前提を欠く。論旨は採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官可部恒雄 裁判官坂上壽夫 裁判官貞家克己 裁判官園部逸夫 裁判官佐藤庄市郎)

上告代理人遠藤誠の上告理由

はじめに

一 本件で問題になっている法律問題については、昭和六〇年七月一九日、最高裁第一小法廷で一応の判断が示された。

しかし、右の判旨にたいしては、その後、日本全国の憲法学者と刑法学者と刑訴法学者が学問的に反対の意見を表明している(その顔触れについては、原審の昭和六一年六月二〇日付控訴人の鑑定証人申請書に記載の一八三名の法学者と、原審の昭和六一年六月二〇日付控訴人の準備書面八六頁―九二頁の憲法学者六一名と、同準備書面九五頁―九九頁の刑法学者・刑訴法学者四六名、合計二九〇名中、重複分を除いた二六四名)。

その法理論的な反対の論点の内容については、甲号各証と一審・二審における上告人の準備書面を見て戴きたいが、いずれにしろ、これだけ多数の日本の法律学者が「前記第一小法廷の決定は、憲法と刑法と刑訴法に違反している」と強く叫んでいるのである。

二 したがって、憲法解釈を含む法解釈上、学界にそこまで反対意見の多い本件においては、昭和六〇年七月一九日の一小決にとらわれることなく、まったく白紙の立場で審理・判断がなされるべきである。

三 その意味でも、本件は小法廷ではなしに、大法定で審理されるのが至当と思料される。

もし、大法廷の判断でも、なお、二年前の一小決と同旨ということになれば、上告人としては、この問題につき、これ以上争うつもりはない。

第一点 原判決には理由を附さない違法がある。

一 すなわち、原審において上告人は、最も力こぶを入れて、つぎのように主張した(原審の昭和六一・六・二〇付控訴人の準備書面四頁―一四頁)。

『二 第一審判決の事実摘示によれば、被控訴人は、つぎのように言っている(第一審判決の事実らんの「三 被告の主張、(三) 刑の時効の停止との関係」)。

「死刑の確定裁判を受けた者につき、絞首及び拘置の執行の双方が停止されれば、その者については法令により当該確定裁判の執行が停止されるものであって、このような場合には刑法三三条の規定が適用されることはいうまでもない(なお、絞首及び拘置の執行の双方が停止される場合があることは、いわゆる免田事件、財田川事件及び松山事件の例に徴し、明らかである)」と。

三 すなわち、被控訴人国の主張によれば、「ある確定死刑囚につき、ある日ある時、絞首と拘置の執行の双方が停止されれば、その時から死刑の時効が停止する」と言うのである。

ところで、そのときから死刑の時効が停止されるということは、そのときまで死刑の時効が進行していたということである。最初から進行していない時効が、途中から突如としてその進行を停止するということは、ありえないからである。

通説も言う。

① 小野清一郎ほか「刑法(第三版)」ポケット註釈全書一三二頁

「時効の停止の場合には停止前に経過した時効期間は依然として有効であり、停止事由が止むと同時に残期間が再び進行を始めるのである。」

② 団藤重光「刑法綱要総論・改訂版」

「時効の停止のばあいは、停止事由が終った時から、時効の残期間が引き続いて進行する。」

四 もっとも、これは当り前のことであって、刑法三三条を逆に読めば、「時効ハ法令ニ依リ執行ヲ停止シタル期間以外ノ期間ハ進行ス」となる所から来る当然の結論である。

つまり、被控訴人国の主張によれば、確定死刑囚につき、絞首の執行停止決定もせず、また拘置の執行停止決定もせず、ただ、ダラダラと死刑囚を生かしたまま拘置をつづけている場合には、死刑の時効が、毎日、毎日、進行しているということになるのである。

五 ところが、被控訴人国も認めているように、控訴人平澤は、いまだかって絞首の執行停止決定を受けたこともなければ、拘置の執行停止決定を受けたこともない。

だとすれば、被控訴人国の論理をもってすれば、控訴人については、昭和三〇年五月七日以来、毎日毎日死刑の時効が進行していたことになり、これから三〇年を経た同年五月六日には、やはり死刑の時効が完成してしまっていることになる。

六 ところが、この点を明確に指摘した第一審原告の主張(一審判決の事実らんの「一 請求原因、2 原告の身柄拘束の違法性、(四)、(3) 刑の時効の停止との関係、(イ)」にたいし、一審判決は、何も答えていないのである。

もっとも、「3 刑の時効の停止との関係」という小見出しの所で、一審判決は、つぎのように言っている。

「しかしながら、刑法三三条は、前掲のような趣旨により、所定の停止事由が存在する場合には時効の進行が停止されることを規定したにとどまるものであって、それ以上に、停止事由が存在しない限りはいかなる場合であっても時効は進行することまで宣明したものではなく、ましてや刑の執行が許される場合には、いかなる場合であっても時効が進行することまで宣明したものではない。

たしかに、刑の時効というものは進行しているか停止しているかのいずれかしか存在しないという二者択一の関係にあるのであれば、原告の主張するような反対解釈もまた成り立ち得るかもしれないが、刑の時効には原告も自認するように、中断も存すれば、当初より進行していないという場合も存するのである。

したがって、刑の時効の停止を定めた規定が存するからといってこれを前提とする原告の右反対解釈が成立する旨の主張は採用することができない。」

七 ところで一審判決の右の判示は、いろんな点で破綻している。

1 まず、控訴人が主張したのは、前記のとおり、被控訴人国が主張するように、「死刑囚につき絞首と拘置の双方の執行が停止された時から死刑の時効がはじめて停止する」のであれば、それまでは死刑の時効は、毎日進行していたはずだというきわめて具体的な問題についてのものであったに拘らず、それについては、ついにイエスともノーとも言っていない(これは、それ自体、民訴法三九五条一項六号の絶対的上告理由である「判決ニ理由ヲ附セ」ざる場合に当たる)。

2 さらにまた、一審判決の言っている「刑法三三条は、刑の執行が許される場合には、いかなる場合であっても時効が進行することまで宣明したものではない」という説示は、一〇〇%まちがっている。

要するに、刑の執行が許されるのに刑の執行をしない場合には刑の時効が進行するのであって、これは時効制度の本質である。

刑の時効とは、国家刑罰権の消滅時効であるところ、消滅時効は、「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時ヨリ進行ス」(民法一六六条一項)るのである。

3 これを要するに、死刑の執行と時効との関係を整理するならば、つぎのとおりとなる。

① 刑の執行を受けている場合 時効進行せず

② 刑の執行を受けていない場合

イ 逃亡している場合 時効進行す

ロ 刑の時効が中断している場合中断前は時効が進行しているが、中断後は進行せず

ハ 刑の時効が停止している場合停止前は時効が進行しているが、停止後は進行せず

そして、被控訴人の主張によれば、本件について、「これから絞首と拘置の執行停止決定が出れば、右の②ハに当たる」と言うので、「それならば、これまで時効は進行していたことになる」と控訴人が主張したのに、一審判決は、右の説示のように、その問いにたいする答えをもってせず、何やら、わけの分らない一般的抽象論でゴマかしてしまったのである。

ちなみに、「これまでの本件の状態が右の①に準ずる場合に当たるのだ」という立論は、停止にかんする被控訴人国の主張に、まっ向から矛盾して成り立たない。なぜならば、何度も言うように、何十年たとうが一日も進行していないものにたいして、時効がその進行を停止するということは、論理的にもまた法律論としても、絶対ありえないからである。』

二 ところが、六枚目おもてから一八枚目うらまでの原判決の理由のすべてを読んでも、上告人が原審で最も力こぶ入れて主張した右の点にたいする判断が、一言も示されていないのである。

にもかかわらず、その結論として「以上説示のとおりであるから、控訴人の本訴請求は理由がない」と言っているのは、明らかに「判決ニ理由ヲ附セザルトキ」に当たり、これは絶対的破毀事由となる(民訴法三九五条一項六号・四〇七条一項)。

第二点 また原判決には、判決に影響を及ぼすこと明かな刑法三二条一号の違背がある。

第一 刑法三二条一号の文理解釈

一 すなわち、刑法三二条一号に「其執行」とある「其」は、どう読んでみてもその前にある「刑」のことである。

そして「死刑ハ監獄内ニ於テ絞首シテ之ヲ執行ス」(同法一一条一項)るのであるから、死刑の言渡が確定した後、三〇年の期間内絞首の執行を受けないことにより、死刑の時効は、どうしても完成してしまうのである。

二 そして、「言渡」という文言は、裁判宣告の動作または行為を指し、「言い渡された裁判」を意味するものとして用いられる例は、日本語にも、また刑法典にも、存在していない。

したがって、「其執行」を「刑ノ言渡ノ執行」即ち「刑を言い渡した裁判の執行」と解し、したがって「其執行」の中に「拘置ノ執行」を含むとする一審判決およびそれを引用した原判決は、牽強付会である。

三 また、仮りに刑法三二条にいう「其執行」が「刑ノ言渡ノ執行」を意味すると仮定しても、刑法一一条二項の拘置は、同条項によって創設的に認められた処遇であって、「死刑ノ言渡ノ執行」としてなされているものではないから、やはり「其執行」は「死刑ノ執行」と解すべきことになる。

この点につき原判決の引用する一審判決は、「拘置は、死刑を言い渡した確定裁判の執行としてなされている」と言っているが、もしそうであれば、本件確定判決の主文において「被告人を死刑の執行に至るまで監獄に拘置する」と宣言されてなければならないはずである。

判決は宣言によって告知されるものであるから、宣告された内容が判決の内容をなす。したがって、たとえば、宣告された刑と判決原本記載の刑とが異るときは、むろん前者が執行されるべきであるとするのが判例・通説である(東京高決昭和三〇年六月一〇日刑集八巻六五四頁、団藤重光氏「新刑事訴訟法綱要・七訂版」二九七頁)。

したがって、判決主文として盛られていない事項の執行は、判決の執行ではなしに、それとは無関係の、まさに刑法一一条二項という特別の規定による執行であって、これを「死刑を言い渡した確定裁判の執行」というのは、これまた牽強付会である。

四 現に刑法一一条二項にも同じく「死刑ノ言渡ヲ受ケタル者ハ其執行ニ至ルマテ之ヲ監獄ニ拘置ス」と規定されているが、これを原判決の引用する一審判決の言うように、「死刑を言い渡した確定裁判の執行、すなわち拘置と死刑の執行」と解すれば、「死刑ノ言渡ヲ受ケタル者ハ拘置ト死刑ノ執行ニ至ルマテ之ヲ監獄ニ拘置ス」ということになり、全く意味不明の条文となってしまう。

五 さらにまた、刑法に「其執行」という文言が登場するのは、ここで問題になっている三二条、一一条二項のほかに、①二五条一項、二項、②二六条ノ二第三号、③三一条、④三四条ノ二第一項、⑤五六条一項・二項など数多く存在するが、そのいずれの場合でも右の文言は、「刑ノ執行」という意味で用いられており、また、同法の①五条、②二六条、③二六条ノ二、④二六条ノ三、⑤三七条、⑥二九条三号、⑦三四条一項、⑧三四条ノ二第一項、⑨五一条の各条文においては、「刑ノ執行」または「刑ヲ執行」という文言は用いられているものの、「刑ノ言渡ノ執行」または「刑ノ言渡ヲ執行」という文言は、用いられていない。

さらに、同法二七条と三四条ノ二第二項には、それぞれ一つの条文の中に「刑ノ執行」という文言と「刑ノ言渡」という文言が用いられているが、各々、その二つの文言は峻別されており、「刑ノ言渡ノ執行」という表現は絶対に用いられておらず、また同法五一条但書は、「死刑ヲ執行ス」という文言を用い、「死刑ノ言渡ヲ執行ス」という表現は用いられていない。

以上のとおり、刑法の条文において「其執行」という文言が用いられている場合には、全て「刑ノ執行」又は「死刑ノ執行」を意味しているのであり、また、刑法の条文において「刑ノ執行」という文言は存するが、「刑ノ言渡ノ執行」という文言は、全く存しないのである。

そして、同一法典中の同一語法にたいする統一的解釈の原則からすれば、同一文書を、一ヵ所だけ別の意味に解釈するということは、絶対に許されるべきことではない。

特に、刑法三二条は、刑の時効の成立要件の規定であり、また同法三四条は刑の時効の中断事由の規定であって、両者は、いわば表裏一体の関係に立つ不即不離の規定であるから、同法三四条に「刑ノ執行ニ付キ」という文言が用いられている以上、同法三二条の「其執行」だけを「刑ノ執行」ではなく、「刑ノ言渡ノ執行」の意味であると解釈することは、不可能である。

もっとも一ヵ条だけ別異の解釈をすることによって拘置されている者に有利な解釈をもたらすというのであれば、罪刑法定主義の人権保障的本質からして許されないことではなかろう。しかしながら、統一的解釈を施せば被拘置者に有利になるものを、わざをざ一ヵ条だけ異なる解釈をして被拘置者を不利に処遇しようということは右の如き罪刑法定主義の本質に照らし、絶対に許されてはならないことである。

六 この点につき、原判決の引用する一審判決は、「刑法三二条の『其執行』を『刑ノ言渡ノ執行』と解するとしても、それは、拘置と死刑の執行が、いずれも死刑を言い渡した確定裁判の執行としてなされるという限りにおいて等しいものであるというにとどまり、その余の内容や性質においてまで拘置と死刑の執行を同一視するものではないことは多言を要しないところであるから、原告の右主張は、その前提を異にするものであって採用することができない」(原判決七枚目表、一審判決四〇枚目表)。

つまり、刑法が随処において同じ文言を使っているのに、刑法三二条の「其執行」だけが「拘置と死刑の執行」の意味であって、その他のすべての条文における「其執行」では拘置と死刑の執行を同一視するものではないと言うことである。

しからば、刑法三二条についてだけ、そのような特異な解釈をなぜするのかの理由については、一審判決は、一言も、述べていない。

わずかに原判決において、「後述の刑の時効制度の趣旨、刑の時効の中断に関する刑法三四条一項の規定との統一的な解釈等に鑑みるときは、『其執行』の意味を右の如く解釈することが合理的且つ妥当なものということができる」(原判決七枚目表)と言っているだけである。

そして、原判決の挙げるその「後述の趣旨」が、全く成り立たないたわ言であることについては、後に述べる。

七 さらにまた、原判決の言うように、刑法三二条にいう「其執行」を「刑ノ言渡ノ執行」と解し、この中に、死刑と拘置の双方が含まれると解するならば、結局、死刑の執行と拘置を同一視することになるが、そうすると、法務当局は、刑事訴訟法四七五条一項の規定に違反する執行を行なってきたことになる。

即ち「刑ノ言渡ノ執行」は、すべて検察官ないし法務大臣の執行指揮ないし執行命令によってなされるところ(刑訴法四七二条―四七五条)、歴代の検察官ないし法務大臣は、いまだかってその「拘置」の執行指揮書ないし執行命令書に印を押していないのであるから、法務当局は、執行指揮ないし執行命令がないのに、「刑ノ言渡ノ執行」を行ない、過去三二年にわたって違法行為を継続してきたことになるわけである。

もちろん、本当はそれは違法ではない。なぜならば、拘置は何度も言うように、「死刑を言い渡した確定裁判所の執行」としてなされるものではなしに、まさに刑法一一条二項という特別の規定による当然のこととしてなされるからである。刑法の規定にもとづく当然の拘置であるから、ハンが要らないのである。つまり、それはやはり、「確定裁判の執行」ではないのである。

八 以上の理は、昭和六〇年の最一小決にも拘らず、日本全国の法律学者二六四名が強く主張していることであるが(甲号各証)、本件原判決批判として出された青山学院大学の西村克彦教授(刑法)の学説にも、つぎのようにある。(別紙の西村克彦教授の鑑定意見書五頁以下)。

「刑法三二条にいう『其執行』というのは、同法一一条二項および三一条にある『其執行』というのと統一的に理解すべきものであって、時効との関係では『刑の執行』のこと、死刑にあっては『絞首』を意味していることは、明白である。本件について言えば、控訴人平沢に対する死刑の言渡の確定した日から三〇年内に絞首刑が執行されなかった以上、右期間の経過をもって死刑の時効は完成したと解するほかない。」

第二 時効制度の立法趣旨からの考察

一 原判決の引用する一審判決によれば、時効制度の趣旨は、つぎのようなものであるとされている。

「犯人が国家の刑罰権の行使を受けないまま社会生活を積み重ねて行くことにより、犯人にとっても一般社会人と同様の社会的事実関係が形成されて行くのであり、そうすると犯人に対する社会的な規範感情も和らぎ、やがては必ずしも現実的な処罰を求めないまでになるのであって、このようにして一定期間の経過によって形成されてきた社会的な事実関係、事実状態を覆し、破壊してまで犯人を処罰することは、一般的社会秩序の維持という法目的に沿うものではなく、むしろ、形成された社会的な事実関係、事実状態を一つの社会秩序とみてこの秩序を尊重することの方が法の目的にかなうというところに、刑の時効制度が設けられた主眼が存するというべきである」と(原判決の引用する一審判決四一枚目表以下、傍点筆者)。

二 誠に、そのとおりである。

ところで、この原判決の論旨を本件に当てはめてみよう。そうすると、こうなる。

「上告人平沢が死刑という国家の刑罰権を受けないまま拘置所内の社会生活を積み重ねて行くことにより、上告人にとって死刑を執行されないという社会的事実関係が形成されて行くのであり、そうすると上告人に対する社会的な規範感情も和らぎ、やがては必ずしも死刑執行という現実的な処罰を求めないまでになるのであって、このようにして一定期間の経過によって形成されてきた社会的な事実関係、事実状態を覆し、破壊してまで上告人を死刑という刑罰に処することは、一般的社会秩序の維持という法目的に沿うものではなく、むしろ、形成された社会的な事実関係、事実状態を一つの社会秩序とみてこの秩序を尊重することの方が法の目的にかなうというところに、死刑の時効制度が設けられた主眼が存するというべきである」と。

三 つまり、これまで三二年間、上告人は、殺されないで来た。それがまさにこれまでの間に形成されてきた社会的な事実関係・事実状態なのである。そして、その「殺されないでいる」という事実関係・事実状態を一つの社会秩序とみて、これからはその秩序を一つの法規範として尊重して行くのが、まさに刑の時効制度の主眼なのである。

そうすると、原判決の論理からすれば、法務大臣が、今後上告人を殺すことは法律的にできないことになってしまったのである。

ところが上告人の身柄を拘束している唯一つの根拠である刑法一一条二項には、「死刑……ノ執行ニ至ルマテ之ヲ監獄ニ拘置ス」と書いてある。つまり、その拘置は、あくまで死刑執行を目的とした手段であって、死刑執行という目的がなくなってしまった現在においては、もはや適用することのできない規定なのである。

原判決も言っている(原判決七枚目表以下)。

「刑法一一条二項の拘置を受けてきた者は、国によって、死刑執行という刑罰権行使の目的のために、その前置手続として社会から隔離され身柄を拘束されている者である」(傍点は筆者)。

そうすると、昭和六〇年五月七日以後の身柄拘束は、やはり違法となる。

四 ところが原判決の引用する一審判決は、また、つぎのように言う(一審判決四二枚目表)。

「もし拘置されてきた者を刑の時効によって一般社会に釈放することになれば、それは拘置されてきた者をめぐって形成されてきた社会的な事実関係と異なる事実関係を新たに創設せしめることになるのであって、従前形成されてきた秩序を尊重するという前述の時効制度の趣旨とは相容れない結果をもたらすことになる」と。

しかし、拘置されてきた者をめぐって形成されてきた社会的な事実関係は、「殺されない」という事実関係であって、その事実関係をこれからの法規範として尊重する結果として、刑法一一条二項がその適用の根拠を失うために釈放ということになるのであって、釈放は、従前の事実状態をこれからの法秩序として尊重するための反射的効果にすぎず、「殺されなかった」というこれまでの事実状態の尊重と、釈放という反射的効果をパラレルに見る一審判決の見方は、ミソとクソを一しょにするものである。

ちなみに、債権を担保するために債権者が債務者から取り上げた質物は、債権の時効消滅によって、債務者に返還すべきことになるのは、常識である。それまで形成されてきた社会的な事実関係は、「貸金を請求しなかった」ということだけなのに、その債権の時効消滅のために質物の占有を債務者に移転するという、従前の事実関係と異なる事実関係を新たに創設せしめることになることに、疑問を持つ者はいないのである。

五 のみならず、刑の時効制度が定められた所以のものは、右の事実状態の尊重のみならず、①判決の確定後、三〇年もたてば、被害感情も和らぎ、②犯人の処罰を求める社会の感情も和らぐ以上、国家刑罰権は、むしろその消滅をきたすという趣旨にもあるのである。

しかして、本件は、まさに右に適合する事例であり、時効は完成したといわざるをえない。

すなわち、第一に、本件帝銀事件の被害者たちは、今や全く上告人の処罰を望んでいないのみか、真犯人を目撃した被害者の一人竹内正子(旧姓村田さん)は、「犯人は平沢さんではない」と言って、再審請求事件の弁護側証人として出廷することを望んでいる。

第二に、上告人の処罰を求める社会の感情もまた、現在皆無であるのみならず、「平沢貞通を救え」という世論は、与野党を通じ約百名の国会議員で構成される「平沢貞通救援国会議院連盟」(会長小宮山重四郎氏・元郵政大臣、事務局長井上泉氏・社会党)が強力に上告人の釈放を要求しているように、国内はもちろん、国際的にも年々高まってきている。

第三に、もし近い将来、被上告人が上告人にたいする死刑執行を断行したとすれば、日本はもちろん、世界中が蜂の巣を突っついたような大騒ぎになることは必至であり、逆にいえば、上告人にたいし、今後とも死刑執行をしないことが、今や、社会的安定性をえてしまったということになるのである。

六 さらにまた、原判決の引用する一審判決のいう「死刑の執行を受けるべき者」という言葉は、当為概念(sol-len)である。

ところが、時効制度というものは、当為概念(sollen)と事実(sein)とが食いちがったときに、事実、すなわち一審判決の言う「社会的な事実関係、事実状態」(一審判決四一枚目表)を優先させるところにその本質があるのであるから、時効の成否を論ずるのに、期間経過後の問題についてまで当為概念を持ち出すのは、自己矛盾である。

すなわち、時効制度の根幹をなす事実上の秩序というものは、法律上の当為の秩序とは、異なるのである。たとえば、死刑の言渡しを受けた者が裁判確定後に逃走した場合、その者をめぐって形成される社会関係も、国家法秩序の立場から見れば、同人が逮捕されるべき者としているのであり、「死刑の執行を受けるべき者」であることに変わりはないのである。

しかし、それでも死刑の執行を受けることがなかったという事実上の状態・事実上の秩序が形成されており、刑の時効が進行することは、原判決も認めている(原判決一〇枚目うら以下)。

そして、そうした事実上の状態・事実上の秩序は、本件の場合も、同様に形成されているのである。

時効の完成を否定し、今後の死刑の執行を認めることは、こうして三二年間(約三分の一世紀!)にわたって続いてきたことの事実上の秩序を破壊することになるから、そのような刑罰権の行使は、原判決の引用する一審判決の言う時効制度の趣旨からも、とうてい許されないはずである。

七 また原判決の引用する一審判決は、前記のように、つぎのように言う(一審判決四一枚目表以下)。

「一定期間の経過によって形成されてきた社会的な事実関係、事実状態を覆し、破壊してまで犯人を処罰することは、一般的社会秩序の維持という法目的に沿うものではなく、むしろ、形成された社会的な事実関係・事実状態を一つの社会秩序とみてこの秩序を尊重することの方が法の目的にかなうというところに、刑の時効制度が設けられた主眼が存するというべきである」と。

すなわち、或る秩序を覆すことによる不利益とその秩序を覆さないことによる不利益とをハカリにかけ、前者、すなわち覆す不利益が大きい場合には、本来の法規と矛盾するその事実上の秩序を尊重するのが時効制度の立法趣旨だというのである。

右の立論については、上告人としても意見を同じくするところであるが、これを本件に照してみるならば、上告人にたいし、時効完成を認めなかった場合の不利益は、時効完成を認めた場合の不利益に比べてはるかに大きいのである。

けだし、本件の場合、上告人にたいしては、死の恐怖下での三二年間にわたる拘禁により、すでに必要十分な程度を越えた応報がなされているというべきであって、さらに加えて上告ににたいし死をもって臨むということは、応報、社会防衛、いずれの点から言っても無意味かつ不必要な刑の執行にほかならないところ、三二年の拘禁に加えて死刑を執行することによって九五歳の上告人に与える不利益たるや、古今未曽有、東西絶無ともいうべき多大なものになるからである。

のみならず、そのようなことは、文明国家としての日本国として、国際的な恥辱ともなり、すでに国益上も大きな損失となっている。

ちなみに、上告人は、未執行期間最長期記録保持者としてすでにギネス・ブックにものせられ、、死刑囚として三二年間拘置して、九五歳になった現在、権力がただその獄死を持っているだけという事実について、今なお世界各国のテレビで放映され、また外国新聞紙が報道し、近くはアメリカのジャーナリスト、ウイリアム・トリプレット氏の著書「竹の花の咲くとき」として、広く世界中に報道されている。

八 さらに原判決は、拘置を死刑の確定裁判の執行ないし国家の刑罰権の発現と解し、そのような意味での死刑の確定裁判の執行ないし国家の刑罰権の発現がなされている限り、時効の進行の問題が生じないとしている。

たとえば、

「刑法一一条二項の拘置を受けてきた者は、国によって、既に死刑執行という刑罰権行使の目的のために、その前置手続として社会から隔離され身柄を拘束されている者であるから、……死刑の時効の進行、完成を認めることは、許されない」(原判決七枚目表以下)と。

しかし、この考え方によれば、つぎの如き不合理が生じる。

すなわち、死刑を言い渡した裁判の確定後、逃亡した者を追跡し、捜索し、見つけ出し、逮捕し、監獄に引致することも、また、死刑の確定裁判の執行であり、国家の刑罰権の発現であると言わざるをえないから、原判決の見解にしたがえば、死刑の確定裁判を受けた後逃亡した者にたいしても、死刑の時効は全く進行しないことになってしまう。

結局、原判決の見解によれば、刑の時効制度そのものが空文となってしまうのである。

そこで、この点については、つぎに述べるように解さねばならない。すなわち、そもそも死刑の執行がなされないまま死刑囚が拘置されているのは、確定判決による刑罰権行使の国家意思が宣明された後も、法務大臣がその刑罰権の発動をさし控えたまま熟慮している状態がつづいているからなのであり、換言すれば、自動的に死刑という刑罰権を行使するのではなく、死刑の執行は法務大臣の命令による(刑訴法四七五条一項)として、その刑罰権行使(絞首)をさし控えている期間中の死刑囚の処遇が刑法一一条二項の拘置なのであるから、結局、同法一一条二項の拘置がなされている場合でも、時効が問題となる死刑執行(絞首)という国家刑罰権の行使ないし死刑の確定裁判の執行については、その不行使という時効の要件が充たされていると解すべきである。

第三 刑の時効中断との関係

一 原判決は、「刑法は、死刑の時効中断事由である『逮捕』よりも死刑の執行と一層密接な関係にある刑法一一条二項に基づく拘置をもって、時効の進行する事実状態とは相反する事実状態と評価していることは明らかであって、刑法一一条二項による拘置の継続中は死刑の時効の中断の前提となる時効の進行はないものといわなければならない」(原判決七枚目うら以下)と、言う。

二 しかし、この立論も、つぎの通説(<書証番号略>、別紙西村意見書)の説くとおり、誤りである。

時効の中断とは、その中断事由がおわれば、さらにまた新たに時効の進行がはじまるものである。

そして、刑法三四条一項の場合、中断事由は「逮捕」であるから、逮捕手続が終われば中断事由はそこで終わるわけである。

ところで「死刑の執行のための逮捕」とは何か。それは、刑法一一条二項の拘置を含むのか。あるいは原判決の言うように、「逮捕ですら中断事由となっているのだから、拘置はなおさら時効不進行事由となっているのだ」と言えるのか。

断じて否である。

すなわち、刑事手続上、逮捕とは、それまで身体的に事由であった人をまず捕えた上で身柄拘束のまま彼を法が予定する次の段階に移送する手続のことである。したがって、移送のために常識上必要にして十分な時間を超えて自由を拘束することは、絶対に許されない。

被疑者を捕えた上でこれを勾留手続に移送する手続としての被疑者の逮捕は、その代表例であって、法律により、その期間は、最長三日以内と制限されている(刑訴法二〇五条二項)。

確定判決を受けた逃亡者を逮捕した場合も、同様に、捕えた逃亡者を、つぎの手続段階である監獄内の拘禁手続に直ちに移送しなければならない。

自由刑に処せられるべき場合には、拘禁手続、即、自由刑の執行であるけれども、しかし、その拘禁を、刑の執行に先立つ逮捕手続と混同することはできない(たとえば懲役犯の場合、逮捕手続中は労役を課せられないが、つぎの受刑手続に入ってはじめて労役を課せられる)。故にその場合、逮捕が監獄内の拘禁手続への移送の完了をもって終わることは、明らかである。

また、移送された人が死刑に処せられるべき場合は、拘禁、即、死刑の執行ではないから、現実に死刑の執行の着手があるまでの特別の措置として、刑法一一条二項が必要になったのである。

これを要するに、逮捕による身柄拘束下の移送は、移送である限り、短期間になされなければならない。

もし、引継ぎの或る段階以後、法がかなりの長期間にわたる身柄拘束を定めているとすれば、それは単に移送のために必要だという理由で認められているのではなしに、移送以外の目的、たとえば捜査等の目的を達成するために必要だという理由からである。

したがって、それ以後の身柄拘束を伴う手続は、移送のための身柄拘束たることを本質とする逮捕とは、本質的に異なる手続なのである。

被疑者の逮捕は、複数の主体に次々と引き継がれうるが、前記のように通して七二時間を超えることができず、それに引きつづく所の、身柄の移送ではなく、その確保を目的とする、最大限二〇日間の起訴前勾留または無期限の起訴後勾留が、逮捕とは全く別個の手続とされているのは、そのためである。

同時に、死刑囚の身柄確保を目的とする、法律上は無期限の、死刑執行に先立つ監獄内拘置も、逮捕とは全く本質を異にする手続なのである。

だからこそ、現行刑法の立法者は、逮捕についてはこれを時効中断事由として規定しながら、拘置についてはこれを時効不進行事由として規定しなかったのである。

そして、「死刑執行のための逮捕手続」が終わって「拘置の手続」に入ったトタン、時効は再進行をはじめるのである。

それは、刑の時効の立法趣旨を説明した刑法総論の教科書のすべてに、時効の進行する場合として「逃走その他の事情により執行を受けなかった場合」と記されているとおりである。

だいいち、「消滅時効ハ権利ヲ行使スルコトヲ得ル時ヨリ進行ス」る(民法一六六条一項)ものである以上、絞首執行という国家刑罰権を行使することができる拘置の段階に入った以上、これを行使しない限り、刑の時効が進行するのは、当然のことである(なお、刑訴法四七五条・四七六条・四四二条本文)。

原判決は、そのような「逮捕」と「拘置」との間の本質的な差異を見落してしまったために、時効が進行する場合を進行しない場合と誤認してしまったのである。

三 百歩ゆずり、「中断の規定との関係で拘置の行なわれている間は時効は進行しない」という見解も、ありうると仮定しよう。

しかし、同時にその逆の見解、すなわち、「拘置されていても死刑の執行を受けない限り時効が進行する」という見解も無数にあるのであって(尨大な甲号証。とくに前最高裁長官岡原昌男判事も……甲三二号証一九頁第一段。また人身保護にかんする東京地裁民事九部の昭和六〇・五・三〇決定、判例時報・判例タイムズも、「刑法三二条にいう『其執行』とは、請求者らが主張するように、その前の名詞である『刑』の執行の意味であると解釈することも文理上は可能といえよう」と言っている)、それらはいずれも二つの考え方にすぎない。

そして、「考え方」がいくつもありうるときに、法律でどうきめるかは、正に実定刑法のきめ方の問題なのであって、現実に日本国刑法がある以上、そこに書いてある条文によって、結論を導き出すしかないのである。

そこで現行刑法には、どう書いてあるかというと、まず刑法三二条には、「時効ハ刑ノ言渡確定シタル後左ノ期間内其執行ヲ受ケサルニ因リ完成ス」としか書いてなくて、「時効ハ刑ノ言渡確定シタル後左ノ期間内其執行又ハ第十一条第二項ニ依ル拘置ノ執行ヲ受ケサルニ因リ完成ス」とは書かれていないのである。

また、同法三三条にも、「時効ハ法令ニ依リ執行シ又ハ之ヲ停止シタル期間内ハ進行セス」としかなくて、「時効ハ法令ニ依リ執行ヲ猶予シ又ハ之ヲ停止シ若クハ第十一条第二項ニ依リ拘置セラレタル期間内ハ進行セス」とは書いてないのである。

しかも、拘置のことを定めた刑法一一条二項は、明治三五年の第一六回帝国議会に提出された刑法案の中に、もともと入っていた規定であるから、もし原判決の言うとおりだとすれば、立法者がこれを三二条と三三条に書き落とすはずはない。

しかも、刑法の解釈において、元被告人に不利益となるような類推解釈を施すことが憲法三一条違反となることは、通説である。

原判決は、あえてその通説にたいする反逆を試みたものである。

第四 刑の時効の停止との関係

一 まず原判決の引用する一審判決は、上告人の主張中、「刑の時効の停止が認められた趣旨は、法律上刑の執行が許されない場合には中断が不可能なことから時効の進行を阻害する必要があるということで設けられたものであることから、刑の執行が許されない場合に限って、時効が停止することになる」ということを「そのとおり」として是認している(一審判決四三枚目表)。

ところで、つぎに問題となるのは、停止にかんするその刑法三三条と死刑の執行停止に関する刑訴法四七九条との関係である。

この点については、これまでの刑法学者の一〇〇%の通説にもとづく左記学説をもって、上告人の主張にかえる。

○ 沢登佳人教授(新潟大学・刑法)(<書証番号略>)

「どういう場合、法令は死刑の執行を停止し従って時効の進行をストップするか。

よほど薄っぺらな六法でない限り、近頃の六法はすべて、刑法、刑事訴訟法のような重要法令には、各法案ごとに、法文の後に小さい活字で、その法条と関係ある別の法条が指示されている。そこで今あなたが開いている六法記載の刑法三三条の関係法条を見て頂きたい。必ず刑訴法四七九条が載っているはずである。そこで今度は刑訴法四七九条を探し出して読んで戴きたい。そこにはこう出ている。『死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によって執行を停止する。死刑の言渡を受けた女子が懐胎しているときは、法務大臣の命令によって執行を停止する』。そしてまた、あなたの六法が指示するこの法条の関係条文を調べて戴きたい。必ず刑法三三条が記載されているはずである。

ということは、つまり、今日わが国のすべての六法編集者(そこにはすべて当代の令名天下にあまねき大法学者先生が名を連らねている)は、拘置されている死刑囚には通常時効が進行するが、彼が心神喪失の状態、つまり白痴または気狂いになっている間および妊娠している間は、法務大臣の命令で死刑の執行を停止せねばならず、かくて死刑の執行が停止されている間は、時効が進行しなくなるというぐあいに、刑法三三条と刑訴法四七九条との関係を解釈しているということを意味する。

そして従来、この解釈に疑念を抱いた人は只の一人もなかった。だから、拘置されている死刑囚に時効の適用があるなんてことは、今日、わが法学者、法律実務家、法学生間の不動の定説で、太陽が東から昇ることと同程度に疑いなき真理なのである。

この真理に楯ついたのが法務当局であり、それを認めたのが東京地裁の藤田耕三判事らである。当然のことながら彼らの議論は支離滅裂である。何しろ太陽が西から昇ると言い張ったのだから。」

二 ところがこの点を強く主張した原告の一審における主張(一審の原告の第二回準備書面六七頁―七一頁)にたいし、一審判決はその理由において一言も判断しておらず、また原判決もその理由において一言も判断していない。

これまた「判決ニ理由ヲ附セサル」(民訴法三九五条一項六号)として、絶対的上告理由となるものである。

三 また、執行停止と時効の停止につき、被上告人の言うように「死刑の確定裁判を受けた者につき、絞首及び拘置の執行の双方が停止されれば、その者については法令により当該確定裁判の執行が停止されるものであって、このような場合には刑の時効の進行も停止する」(一審判決の事実らん二八枚目うら―二九枚目表)とすれば、上告人はいまだかつて絞首の執行停止と拘置の執行停止をされたことがないので、ずうっと刑の時効が進行して来たことになるとの、これまた最も力こぶを入れた主張にたいし、原判決の引用する一審判決では、その事実らんにおいて、それを原告の主張として詳細に摘示しておりながら(原判決一四枚目うら―一五枚目表)、判決の「理由」においては、これにたいし、イエスでもなければノーでもなく、全くの判断回避をしており、また原判決も同様に一言もその判断をしめしていないのは、同じく「判決ニ理由ヲ附セサル」場合として絶対的上告理由となることについては、前記第一点で指摘した。

四 原判決の引用する一審判決では、この点についての理由の説示において、最も歯切れが悪く、結局何を言っているのか、さっぱり分らない。

結局、時効の停止について一審判決の言っていることは、「刑の時効というものは進行しているか停止しているかのいずれしか存在しないという二者択一の関係にあるのでなしに、刑の時効には中断も存すれば、当初より進行していないという場合も存する」(一新判決四三枚うら―四四枚表)ということに帰着するが、上告人の主張では、そんな見当ちがいなことを言っているのではなくて、「絞首の執行停止と拘置の執行停止の両方がなされれば、そこではじめて死刑の時効の進行が停止するのであれば、本件については、まさに死刑の時効が進行しているはずだ」という、誠に具体的かつ学生にも分る理論なのである。

五 ちなみに一審判決が、上告人の主張をはねる理由として言っている「刑の執行が許される場合には、いかなる場合であっても時効が進行するというものではない」(一審判決四三枚目うら)という判示は、一〇〇%まちがっている。おそらくこれに賛成する刑法学者は、ゼロであろう。

刑の執行が許されるのに執行をしない場合、それがまさに刑の時効が進行する場合なのであって、刑の執行が許されるのに、刑の執行をしない場合、それでも刑の時効が進行しないというのは、いったいいかなる場合なのか、御庁は、それを明示すべきである。

もし、「刑の執行が許される場合に、なお刑の時効が進行しないのは、死刑囚が拘置されている場合だ」と言うのであれば、それは答えになっていない。

なぜならば、拘置死刑囚にも時効が進行する理由として執行停止と時効の停止の問題を出しているのに、執行停止と時効の停止にかんする上告人の主張をはねるのに、「拘置死刑囚には時効が進行しないのだ」と言うのは、Aの理由がBであり、またBの理由がAであるということであって、完全な循環論法だからである。

第三点 原判決には憲法一四条一項の解釈の誤りないし憲法一四条一項の違背がある(法の下の平等違反)。

一 逃亡死刑犯との均衡の問題について、原判決の引用する一審判決は、つぎのように言う。

「たとえば懲役刑を言い渡した裁判が確定した後に逃亡した者は、一般社会において自由を享受しつつ、時効期間が経過すれば刑の執行の免除を受けられるのに対し、裁判確定後刑の執行を受けている者は、監獄に拘置され定役に服するという点において自由を奪われた生活を余儀なくされたうえ、遂に時効の恩恵を享受することなく終わる」(一審判決四四枚目うら)。だから「被拘置死刑囚と逃亡死刑犯との間に生ずる差異は、時効制度に不可避的に内在するものなのである」(一審判決四四枚目うら)と。

二 ところで上告人が一審以来問題にして来たのは、そんなことではない。

懲役犯の場合、逃亡者は非受刑者であり、監獄内で定役に服している者は受刑者であって、その間、受刑の有無という点でハッキリと本質的なちがいがある。

ところが、三〇年たった被拘置死刑囚と同じく三〇年たった逃亡死刑犯との間では、死刑の執行を受けていないという点では、全く同じなのである。

拘置が死刑の執行でないことは、原判決の引用する一審判決でも、くりかえし述べているところである。

すなわち、

「拘置は固有の意味での刑そのものではない」(一審判決三八枚目うら以下)。

「拘置と死刑の執行を同一視するものではない」(同四〇枚目表)。

そうすると、逃亡死刑犯と被拘置死刑囚との間には、死刑の執行を受けていないという点については、全く同じになる。むしろ、再び法を破って三〇年も逃げかくれしたやつよりも、三〇年以上、拘置所内でおとなしくしていた人を、より保護すべきである。

そしてこのことは、多くの法学者と世論が強く主張しているところであるが、その中の一つだけを援用して、上告人の主張にかえる。

○ 昭和六〇年六月二日朝日新聞(朝刊)社会面マンガ(<書証番号略>)

サトウ・サンペイ氏画くところのマンガ「フジ三太郎」で、まず、帝銀事件の東京地裁決定にいわく、「拘置中の死刑囚に時効はない。しかし逃亡者には時効認める」と。そこで、裁判所推せん映画として映画「大脱走」をすすめるという三コマ・マンガである。

これが健全な社会通念というものである。

三 この点につき原判決は、つぎのように言う(原判決一〇枚目表―一二枚目表)。

「逃亡者の場合には曲りなりにも一般社会人として一般社会の中で日常生活を長期間にわたって継続しているのに対し、被拘置者の場合社会から隔離されて拘禁されているから、両者の間は、社会の規範感情の緩和の点で質的に大きく異なっている」と。

四 しかし、この説示も誤りであることは、甲号各証における法学者多数の指摘するところであるが、ここではそのうちの一、二を引用して、上告人の主張に代える。

① 佐藤昭夫教授(早稲田大学法学部)(<書証番号略>)

「1 死刑犯が逃走した場合であっても、国家法上はそれが『逮捕されるべき者』であり、逮捕した上で「まさに死刑の執行を受けるべき者」として一貫して扱われている点では、一貫して拘置が続けられている場合と同様である。もしそうでなく、逃走すればまさに『死刑の執行を受けるべき者』でなくなるとすれば、『刑ノ執行ニ付キ犯人ヲ逮捕』「刑法三四条一項)することの根拠もなくなってしまうだろう。

2 他方、社会一般の規範感情の緩和という点でも、死刑囚が拘置されている、いないに拘らず、時間の経過とともに、犯罪、犯人の印象、記憶も不鮮明となることに変りはない。むしろ長期の拘置のあとひっそりと死刑執行がなされる場合に比べ、犯人が逃亡した場合には、世人は裁判が公正であると確信するかぎり、その脱獄囚に対して憤激し、記憶を持続させるであろうし――ことに指名手配がされる場合など――、また逃亡者の時効完成が迫った場合には通常マスコミ等が大きくとりあげるであろうことからしても、印象、記憶は、より鮮明となるであろう。そして規範感情の緩和は、脱獄者に対してよりも、いつ死刑執行されるかという死の恐怖に直面しながら三十年も拘置を続けられてきた者に対する測隠の情として、より強く生ずるのが、権力に奢ったサジストではない社会一般の感情というものであろう。

3 脱獄者の場合に国家権力によって一般社会から隔離されておらず、本人について一定の一般的な社会生活関係が形成されていくことがあっても、それはごく限られた狭い範囲のことにすぎず――そうでなければ逮捕されるであろう――、社会一般はその者と接触してもいないし、社会一般の感情がそれによって左右されるわけではない。社会一般としては脱獄囚がごく狭い範囲において形成した具体的な一定の社会関係など知りもしないし、関心の外にある。社会一般にとって重要な意味をもつのは、脱獄囚であると拘置を受けている場合であるとを問わず、死刑の宣告をうけながら死刑執行を受けることなく三〇年をすごしたという事実のみであり、死刑を受けることがなかったという社会関係である。」

②沢登佳人(さわのぼりよしひと)教授(新潟大学・刑法)(<書証番号略>)

「法に背いて逃亡しその間自由を享受していた者に対してさえ、刑法は死刑の執行を免除するという恩典を与えているのだから、法に従って三〇年間自由を拘束される苦痛を忍受して来た者に対しては、もちろん死刑の執行を免除する恩恵を与えなければならない。象が通ってよい道なら、もちろん馬も通ってよいというのと同じ理屈である。もし恩恵を与えなければ、不公平どころか、象は通ってもよいが馬はいけないというのと同様、話が全く逆であって、正義と憲法一四条に定める法の下の平等に対する重大な侵犯である。」

五 昭和六〇年七月一九日の最一小決の判断遺脱

1 ところで、この憲法一四条の法の下の平等違反という主義は、昭和六〇年の人身保護特別抗告審においても、上告人において強く主張したことであった。

ところが、同年七月一九日の最一小決は、死刑三二条の解釈論と、つぎに主張する残虐刑の問題にたいする結論を示しただけで(もっとも、その理由として挙げている判例は、全く見当ちがいの判例であったが)、肝心かなめのこの憲法一四条問題については、一言もふれず、ただ、「所論は、違憲をいうが、その実質は、刑の時効に関する刑法三二条ないしその関係法令の解釈運用についての主張であって、民訴法四一九条ノ二所定の場合に当たらないと認められるから、右は適法な抗告理由ということはできない」と。

2 もちろん上告は、特別抗告とちがい、「判決ニ影響ヲ及ボスコト明ナル法令ノ違背アルコトヲ理由トスルトキ」にもできる(民訴法三九四条)から、まさか今度は御庁もこの点についての判断をサボることはないだろうが、しかし、大事なことは、この法の下の平等違反の問題が、単なる「法令ノ違背」ではなしに、まさに憲法一四条の解釈の誤りないし憲法一四条違背ということなのである。

したがって、今度こそは真正面から憲法問題として受けとめ、逃げることなしに判断してもらいたい。

この点についても、学者が強く最一小決を批判している所である。

すなわち、

○ 沢登佳人教授(<書証番号略>)

「抗告は、抗告理由の第三点として、死刑の裁判確定後、法に背いて逃走し自由を享受しさし迫った死の恐怖もなく三〇年間通常の社会生活を送った者に時効の完成を認めながら、判決確定後法を守って自由の剥奪を甘受し、『今日は死刑か、今日は殺されるか』という絶え間なき死の恐怖の下に三〇年間社会から隔絶した非常の生活を送った者に時効の完成を認めぬのみか、その望みさえ絶ち切ってしまうのは、法が同じ死刑の確定判決を受けた者を極度に不平等に取扱うもので、憲法一四条一項の法の下の平等原則に違反すると主張し、原決定がこの不平等を是認した論理を逐一論駁し粉砕している。これは明確にまぎれなく純粋に憲法違反の主張であるから、最高一小の決定理由三に言う『「裁判ニ憲法ノ解釈ノ誤アルコト其ノ他憲法ノ違背アルコト」を理由とする抗告』の要件を充しており、従って、他の憲法違反の主張と同様に最高裁は憲法が命ずる厳粛な義務として、抗告人主張の如き違反ありや否やについて精思し、しっかりした理由に基く明確な判断を示すべきであった。しかるに最高裁決定は、決定理由のどこにもその判断を示していない。

抗告人の主張は、あくまで『原決定の法令解釈は憲法違反である』という主張なのであるから、民訴法四一九条ノ二所定の、原決定に『憲法ノ違背アルコト』を理由とするものであることに、疑う余地はない。『原審の法令解釈は憲法違反だ』という抗告理由が、単に法令の解釈適用についてのみの主張であって、それを理由としても憲法違反を理由としたことにはならず、従って適法な抗告理由にならないという話は、聞いたことがない。何故憲法一四条違反のみを除け者にしたのか。

かくて最高裁の本決定は最高裁が国民の総意に基き憲法によって負託された所の、法令解釈の合憲性を確保するという厳粛な義務の遂行を完全に懈怠した、言語道断の違憲的裁判と言うのほかはない。

懈怠の理由は、まさか『まじめに抗告理由を読まず、ペラペラめくってみただけなので、うっかり抗告理由の第三点を読み落としました』とか『第二点まで読んで疲れたので、ちょっと一服して後で読もうと思っているうちに忘れてしまい、全部読み終ったつもりになって第一点と第二点についてだけ検討・判示し、それで任務完了のつもりでいました』とか、『全部熟読して三つの抗告理由を最初はちゃんと覚えていたのですが、第一点と第二点とを考えて行く間に頭が朦朧となって、第三点のことをすっかり忘れてしまったのです』とかいうことではあるまい。法曹界各界の重鎮より成る最高裁判事の中に、そのような不真面目な人間やぼけ人間が、只の一人たりといるはずはない。

しからば懈怠の理由は只一つ。抗告理由を読む前から棄却の結論が決まっており、どう理由づけるかだけが問題であったところ、さて理由を読んで見たら第一点と第二点に対しては斥ける理由になると主観的に思われる理窟が見つかったが、第三点については見つからず、これをとり上げれば抗告理由を認める以外に方法がなくなるので、仕方がないから気づかぬふりをしたのである。他に一体どんな理由が考えられると言うのか。あったら教えてもらいたい」。

第四点 原判決には憲法三六条の解釈の誤りないし憲法三六条の違背がある。

一 上告人は、原審で民訴法一二七条三項に基き、裁判長にたいし、つぎのように、被上告人にたいする求釈明をするよう求めた(原審の昭和六一・六・二〇付控訴人の準備書面一頁―三頁)。

「被控訴人にたいする求釈明

一 被控訴人国の機関である法務大臣には、これから控訴人平沢を殺す意思があるのか、ないのか、釈明を求める。

二 その理由

1 もし、法務大臣に、これから控訴人を殺す意思があるとすれば、①過去三一年二ヵ月、毎日毎日、控訴人を『殺すぞ、殺すぞ』とおどかしながら、その死の恐怖の下の三一年二ヵ月後にはじめて殺すという、地球はじまって以来、前例を見ない残虐な刑罰(憲法三六条違反)となり、②また、最高裁の確定判決がみとめたのは死刑のみであるところ、これから殺すとなれば、三一年二ヵ月の死の恐怖の下の禁固刑プラス死刑を執行することになるので、刑罰裁判主義に違反することとなる(憲法三一条違反)。

2 逆に、これからはもう殺さないというのであれば、拘置は、死刑の執行を目的としてのみ許されるものである(刑法一一条二項)から、本件拘置は、その法律上の根拠を失なって、違法な拘置となる。

3 したがって、これにたいする被控訴人国の答弁がどうなるかによって控訴人の請求原因がちがって来る」と。

二 ところが、本件における攻撃・防御方法の根幹をなすその問題につき、原審は、被上告人にたいし、何ら求釈明をせず、したがって被上告人も、これにたいし、何らの釈明もしなかった。

このような原審の不作為は、あきらかに民訴法一二七条一項に定める釈明義務の懈怠であり、したがって原判決には、この点につき、民訴法一二七条一項という法令の違背があり、かつその法令の違背は、判決に影響を及ぼすことの明かなものと言わなければならない。

三 ところでこの点につき、原判決は、被上告人国が、右のように「これから殺す」とも「殺さない」とも一言も言っていないのに、勝手に、「これからでも殺せるのだ」とつぎのように認定してしまった「原判決一六枚表)。

「被控訴人が控訴人に対し死刑を執行する意思がないとはいえない」と。

そうするとどうなるか。

まさに前述したように、その死刑は、三二年間も上告人を毎日毎日死の恐怖の下に牢獄に閉じこめつづけた上での改めての死刑ということになり、これは、地球はじまって以来の前例のない残虐な刑罰そのものであり、憲法三六条に真向から違反してしまう。

四 この点につき、昭和六〇年の最一小決はつぎのように言っている。

「三〇年の拘置ののちに死刑の執行をすることは、当裁判所大法廷の判例(昭和二三年三月一二日大法廷判決・刑集三号一九一頁、昭和三〇年四月六日大法廷判決・刑集九巻四号六六三頁)の趣旨に徴すれば、憲法三六条にいう残虐な刑罰に当たらないことが明らかであるというべきである。」と。

五 ところが、最一小決の引用する昭和二三・三・一二の判決は、「刑罰としての死刑そのものが、一般的に直ちに憲法三六条にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない。ただ、火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆで等その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有すると認められる場合には同条違反になる」としただけのものであり、また、昭和三〇・四・六の判決は、「現在各国で採用されている絞・斬・銃・電気・瓦斯殺と比べて、現在わが国の採用している絞首方法が他の方法に比して特に人道上残虐であるとする理由は認められない」としただけのものであって、いずれも、死刑ないし絞首刑が残虐な刑罰ではないとしただけのものである。

ところで、上告人が問題にしているのは、そんな検討ちがいのことではない。三二年間も、一人の人間を毎日々々死刑執行の恐怖の下に牢屋にとじこめたうえ、三二年目に改めて殺すというその全体の仕打ちが残虐な刑罰になるということであって、最一小決は、その問題については、何も答えていないのである。

六 しかして、右最一小決および本件原判決にたいする判例批評として最も新しいつぎの学説も、つぎのように強く主張している。

① 川口是(まこと)教授(元・京都大学法学部・憲法)(昭和六二年一月一一日付鑑定意見書)(この理由書に添付)

「1 いったん時効の問題とはなれて、一般的に問題をとらえてみた場合、死刑を言い渡した裁判が確定した以上、拘置された状態がつづいているならば、いかに長期間が経過しようとも、死刑の執行は許されるという主張が成り立ちうるかどうかを考えてみる必要がある。

たとえば、二〇歳のときに死刑の確定した者を、七〇年にわたって拘置し、九〇歳のときに死刑の執行をなしうるかという問題である。

そのときでも死刑の執行をなしうるという論が極論であり、常識はずれであるというならば、極論にならず、常識はずれにならないための一つの『メド』をもうけなければならない。

人の主観は、さまざまでありうる。しかし、実定法上ひとつの『メド』となりうるものとしては、時効の三〇年以外には求めようがないのではないだろうか。

三〇年という期間は、時効の問題としてのみではなく、それをこえたのちの死刑執行も許容しうるかどうかの問題として検討すべきものと思われる。もし、三〇年をこえたのちの死刑執行も許容しうるとするならば、たとえ五〇年になろうと、七〇年になろうと、可能と明確に主張し、かつその論拠を述べるべきだし、その論が極論であり非常識であるとするならば、どこに『メド』をつけるべきかを単なる主観ではなく実定法にそくしつつ明かにすべきだし、いずれかの論理の展開がなければならない。それなしに、三〇年を越えただけではというにとどまるなら、それは本件についてみれば、自然死によって問題をウヤムヤにしてしまおうとする、もっとも無責任な態度と言わざるをえない。

以上のように考えてみることによって、あらためて三〇年という期間のもつ重みを理解しうるのではないだろうか。

2 三〇年の重みとは何か。それは時間的な長さだけではない。いわゆる死刑囚にとっては、死と対面した一日一日の積み重ねとしての三〇年なのである。それが持つ深刻さは、おそらく私自身にも実感としては分らないし、体験しない者には――検察官であろうと裁判官であろうと――、同様であろう。

本件の場合、再審事件の係属中も、検察官が死刑執行停止の措置をとらなかったことは、東京高裁の昭和六一・一二・三判決においても、『被控訴人はこれを明らかに争わないから、右事実を自白したものとみなす』とされている。この事実をふまえて、私としては、最高裁判所に、次のことを明らかにして頂きたいと思う。

① 拘置されている死刑囚は、どれだけの歳月が経過しようとも、死刑の執行をなしうると考えるのが合理的であるか、どうか。

② もし合理的であるとするならば、前述のような七〇年経過後の処刑についても、憲法三六条にいう『残虐な刑罰』に該当しないという根拠は何か。

③ 右のような事例は極論あるいは非常識であるとするならば、極論を許さず、非常識にならないためのメドは何か。

④ 右のメドを、人それぞれの主観によってでなく、実定法上に一つの拠り所を求めるとすれば、時効三〇年の規定以外にどのようなものがあるか。

3 率直に言って、私としては、拘置されつづけている場合にも、死刑の時効は三〇年をもって成立すると解したい。しかし、それについて解釈の対立がある状況において、いったん憲法典に立ち戻って判断するなら、長期にわたり死と対面しつづけたのちの死刑の執行は、ある限度を超えるときは、憲法三六条違反の問題をひきおこすと思う。その限度について一義的な決定はむつかしいが、実定法上に一つの拠り所を求めるとすれば、逃亡者と同じ歳月をもってメドとするのが、公平の感情にも合致するように思われる。

本件についても、死刑を言い渡した裁判が確定したときから三〇年を経過したのちの死刑の執行は許されず(憲法三六条違反)、とすれば、死刑の執行を前提とし、その必要のために行なわれる拘置の根拠は消滅すると解するのが相当である。現在、本件において、いわゆる帝銀事件の平沢貞通氏に対してつづけられている『拘置』は、刑法一一条二項を根拠とするものとは異質のものであると言わなければならない。

4 本件は、かって最高裁判所により、『全地球よりも重い』と評価された人命のかかっている問題である。しかし、すでに最高裁昭和六〇年七月一九日第一小法廷決定(昭和六〇年(ウ)第二五六号)において、一応の決着がつけられているかのようにも見える。とはいえ、右決定において引用された大法廷の判決は、本件と同一の事例についてのものではなく、『趣旨に徴すれば』というような漠然とした言い方ではなく、2①〜④に述べたような論点にそくして判断が示されるべきである。それがなければ、『全地球よりも重い』という言葉も、空虚なひびきしか持たないことになろう。」

② 田畑忍教授(前・同志社大学法学部・憲法)(昭和六一年一二月三一日付鑑定意見書)(この理由書に添付)

「東京高裁の昭和六一・一二・三判決は、憲法第三六条に明らかに違反する。

東京高裁の右の判決は、憲法三六条で『絶対にこれを禁ずる』とした『残虐な刑罰』を控訴人平沢氏に強要するものだからである。すなわち、本件一審の東京地裁も、東京高裁も、憲法三六条を全く無視し、刑法三四条を曲解することによって、刑法三二条の時効の規定を、権力主義的に故意に解釈してしまったからである。

日本国憲法に一貫して厳存する精神は、言うまでもなく人権主義であって断じて権力主義ではないことを、なぜ裁判所は理解しないのであろう。むしろ不可解千万の感じがする。

特に憲法三六条は、その人権主義の集中的かつ具体的な最高の法規範である。そして日本語を正しく解する限り、憲法の規定に反する立法も、司法も、行政も、ことごとく違憲であり、無効であることは、疑いえない。

いな、そればかりではない。刑法の時効の規定(三二条・三四条)も、刑訴法四七九条・四八〇条の規定も、決して逃亡死刑犯を保護するのみの規定ではないことは、人権に対する正しい理解が前提にあれば、きわめて明らかである。

最高裁判所大法廷の良識と人権主義に期待してやまない所以である。」

七 この点につき、原判決の引用する一審判決は、つぎのように言う(一審判決四六枚うら以下)。

「仮りに、原告の主張するように、死刑の確定裁判を受けた者に対し、長期の拘置を経たうえで死刑を執行することが残虐な刑罰に当たるということであれば、裁判確定後できる限り速かに死刑を執行する方が憲法の趣旨に合致するということにもなりかねないが、このような事態を招来するような結論は、大いに疑問であること多言を要しない」と。

1 ところで、少なくとも死刑制度を存置し、かつ刑訴法四七五条二項本文に「法務大臣の死刑執行の命令は、判決決定の日から六箇月以内にこれをしなければならない」と規定され、また同法四七六条に「法務大臣が死刑の執行を命じたときは、五日以内にその執行をしなければならない」と規定されている以上、有罪であることが一〇〇%間違いなく、また刑の量定としての死刑にたいし本人から量刑不当としての再審請求もなされていない場合に(「原判決において認めた罪より軽い罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき」にも、再審請求をすることができる……刑訴法四三五条六号)、裁判確定後、できる限り速かに死刑が執行されるべきことは、現行法上、やむをえないことである。

2 問題は、確定後においてもその有罪・無罪が争われている場合であるが、それについては、後に述べる再審請求後、再審開始決定前の刑の執行停止(刑訴法四四二条但書)とそれによる刑の時効停止(刑法三三条)の規定の適切な運用によって十分にまかなわれるべきことであるのみならず、つぎの学説の説くとおりでもある。

○ 川口是教授(昭和六二・一・一一意見書)(本書に添付)

「一審判決の言う『死刑の確定裁判を受けた者に対し、長期の拘置を経たうえで死刑を執行することが残虐な刑罰に当たるということであれば、裁判確定後できる限り速やかに死刑を執行するほうが憲法の趣旨に合致するということにもなりかねない』という論は、まったくの言いがかりである。

『合致するということにも』とふくみを持たせて断定は避けているが脅迫的言辞と言える。

死刑の執行が行なわれないのには、それなりの理由があるのであって、そのことを抜きにして脅迫的言辞を弄するのは、『死刑には身長な判断が必要』とことわっても、ただ言葉の上だけのことではないかとさえ疑わしめる。最高裁判所が、このような姿勢をとられないことを希望しておきたい。」

第五点 原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな刑訴法四四二条但書および憲法三一条の違背がある。

一 すなわち、死刑囚のする再審請求に相当の根拠があって慎重審理に値し、その間死刑の執行を差し控えて十分審理を尽させる場合には、検察官は、刑訴法四四二条但書に基づいて死刑囚の死刑の執行を停止し、死刑囚から死の恐怖を取り除き、同時に、その執行停止によって死刑の時効をも停止させる(刑法三三条)義務がある。

ところが、上告人は前後一七回に亘って再審請求をし、その期間は通算して約二八年に及んでいるにかかわらず、この間、検察官は上告人にたいし、死刑の執行停止の措置を採ることなく二八年の間上告人を死の恐怖の下に拘置しつづけた。刑法一一条二項は、死刑執行に備えて身柄を確保するために常識的に考えられる相当の期間拘置することを認めているにすぎず、同条によって上告人にたいする右のような拘置を正当化することはできないから、上告人にたいするこれ以上の拘置の継続およびこれからの死刑の執行は、法定手続を保障した憲法三一条に違反する。

二 この点につき、原判決は、言う(原判決一五枚表)。

「検察官は再審請求認容の蓋然性その他諸般の事情を考慮して刑の執行停止を決するのであるから、再審請求に際して刑の執行が停止されず、二七年の長期に亘り拘置が継続されたからといって控訴人に対する拘置やその後の死刑の執行が許されなくなると解すべき理由がない」と。

三 しかし、本件一七回にわたる再審請求において、もし本当に検察官が「再審請求認容の蓋然性その他執行を停止すべき諸般の事情」がないと判断したのなら、いつでも死刑執行をすることができたはずである(刑訴法四四二条本文)。

にも拘らず、これまで三二年の間、死刑執行をしなかったのは、やはり、「再審請求認容の蓋然性その他諸般の事情」を考慮して、執行すべきでないと考えたからである。

そして、そのように刑の執行停止の要件が充足しており、したがって刑の時効を停止させる要件が充足していたのに検察官がサボって刑の執行停止をせず、そのために刑の時効を進行させておりながら(刑法三三条)、三〇年経過すると、「イヤ、刑の執行停止をしなくとも、刑の時効は進行していないのだ」と強弁することは、著しく信義則に反し、違法である。

四 そしてこのことを強く主張される学説は、つぎのとおりなので、上告人は、これをも上告理由として主張する。

○ 沢登佳人教授(最一小決後の昭和六〇年一二月付<書証番号略>)

(そもそも平沢氏の受けたような三〇年間、来る日も来る日も、今日は死刑か、今日は殺されるかという恐怖の下に死刑囚を置き続けることが果して刑法一一条に基づいて認められている処遇なのかということが問題である。

もし認められていなければ、法務当局の弁解は根拠を失う。

しかるに、認められていると言いえんがためには、そのような処遇が、拘置に必然的不可避的に伴うものであることを要する。もし、そのような処遇が法律上避けることができるものであったに拘らず、行刑機関がことさらにそのような処遇をしたのであれば、それは、刑法一一条二項に基く拘置に加えて、法律上に基くことなく、行刑機関の恣意のみに基く所の、三〇年間死の恐怖下に人を置くという非人道的な精神的迫害を行なったことになり、罪刑法定主義に反する結果となる。ましてそのような処遇が法律によって避けることを義務づけられているものであるのに、行刑機関がその義務を履践しなかったのだとすれば、その行為は、憲法違反であるだけでなく、重大な犯罪(刑法一九五条の特別公務員暴行陵虐罪など)となる。刑法一一条二項は、単に死刑に至るまでの拘置を命じているだけで、被拘置者に不必要な精神的迫害を加えることを認めるものでも、まして命じるものでもないからである。

しかして平沢氏の場合、三〇年間継続した死の恐怖下の拘置は、そのうち約二八年間についてはその恐怖を与えないようにすることが検察官に可能でありかつ義務づけられていた所の拘置だったのである。すなわち、平沢氏が三〇年に及ぶ拘置期間中、前後一七回に亘って提出した再審請求の期間は、通算して約二八年になる。

しかるに刑訴法四四二条によれば、「管轄裁判所に対応する検察庁の検察官は、再審の請求についての裁判があるまで刑の執行を停止することができる」。それ故、死刑囚の場合、再審請求がただ延命のみを目的とした全く無根拠のものであり、したがって再審請求中だろうと遠慮なく死刑を執行してもかまわない場合は別であるが、相当の根拠があって慎重審理に値いし、したがってその間死刑の執行をさしひかえて十分審理を尽させるべき場合には、検察官は、必ず裁判があるまで刑の執行を停止しなければならないのである。

そして死刑の執行を停止しておけば、刑法三三条により、時効の進行が停止するから、一部の法学者やマスコミが説き人身保護の東京地裁決定が援用しているように、『時効を認めると、その完成が近づいたとき、法務当局が再審請求中でも死刑を執行せざるをえなくなる』というような心配も、そうなることを恐れて裁判所が再審請求の審理を急ぎ、慎重適確な判定ができなくなるという心配も、全く無用の心配だということになる。その上、死刑囚はそのような再審請求期間中は絶対に死刑を執行される心配がなく、枕を高くして眠ることができる。

つまり、この場合死刑の執行停止措置をとることは、法務当局、裁判所、死刑囚のいずれにとっても好都合な、一石三鳥の方法なのである。どうしてこの措置をとってはならぬ必要があろうか。

もっとも、死刑囚は、その間時効が進行しなかった分、時効の完成が遅れるわけで、再審請求をくり返せば一生完成しなくなることもありうるが、不服のあろうはずがない。

人あるいはこれを反論して、刑訴法四四二条は、「停止しなければならない」とせず、「停止することができる」としているから、たとえ相当の根拠のある再審請求が出されても、執行停止をしないのが原則で、例外的に検察官が特別のお情を以て執行を停止してやることができる趣旨の規定であると、主張するかもしれない。

しかし、ちょっと考えれば、そんな解釈のありえないことがわかる。

再審請求が相当の根拠を有し慎重審理に値するにも拘らず、否、そうだからこそ、法務当局者(検察官と法務大臣)が、『再審請求が認められては一大事だから、今のうちに死刑を執行してしまえ』と、再審請求中に死刑を執行したとすれば、これは死刑執行に名を借りた殺人である。したがってかような場合には、必ず裁判があるまで死刑の執行を停止しなければならないし、しかもそのことは法務当局者の内々の取りきめでなく、死刑囚にもはっきりわかるように、刑訴法四四二条但書にもとづく公的措置としてなされなければならない。内々の取りきめだけでは、結果的に再審請求中、死刑囚を、実際にはありもしない死刑の恐怖によってさいなむことになる。これは国家権力による詐欺的精神的陵虐にほかならない。

又もし万が一にも、法務当局者が、『公式に死刑の執行を停止すれば、有罪に自信が持てなくなったことを公認するようなもので、体面をそこなう』とか、『死刑囚を、再審請求中枕を高くして眠らせることになって、くやしい』とか、さらには『いずれ無罪釈放になるだろうが、それまではあくまで死の恐怖でさいなみ続けてやろう』とかの理由により、本当は死刑を執行する気もないのにあるようなふりをして、公式の執行停止措置をとらずに死刑囚を死の恐怖によってさいなみ続けるとすれば、その卑劣さ・非人道性はもはや人間のものではなく、正に悪魔の所業と言わなければならない。

それ故検察官は、相当の根拠を有する再審請求を死刑囚が提出したときには、犯罪を避け悪魔の所業に陥らないために、必ず死刑の執行停止をしなければならない。逆の方から言うと、相当の根拠を有する再審請求が提出されたのに検察官が死刑の執行を停止せず死の恐怖下に置き続けることは、違法であり犯罪であり悪魔の所業であるから、もとより刑法一一条二項が、拘置と併せて、そのような所業を命じたり許したりしているはずもない。故にこの所業は、断じて法律に基くものではなく、法定手続の原則に違反し、もしその上死刑を科するならば、罪刑法定主義を侵犯したことになる。ましてそれを二八年間継続しておいて、刑法一一条二項に基くものだから違法でも違憲でもないなどという弁明が通るわけがない。もっとも、法務当局が、本当に『この再審請求は、死刑逃れ・延命のためだけのデタラメのもので、無視してもよい』しと思って執行停止をしなかったのなら、違法・違憲を問題にすることはできないわけであるが、その場合には遠慮なく死刑を執行してしまうであろうから、三〇年間執行を免れて時効が完成することなど、絶対にありえない。

人身保護の東京地裁決定は、法務当局の弁解を鵜呑みにして、法務大臣は死刑執行の慎重なるべきを思い、再審請求中、人道的配慮から死刑の執行をさしひかえて来たのだと言う。つまり、三〇年間、死の恐怖下の生活を強いられたのは、平沢氏が再審請求をくり返したせいであって、法務当局の責任ではなく、それどころか、法務当局者の人道的配慮のお蔭なのだから、感謝されて当然であって、逆に文句を言われる筋合はないと言うのである。

しかし、慎重を期して人道的配慮から執行をさしひかえたのは、再審請求に相当の理由があるので、結論が出る前に死刑を執行して、万一後で無罪と判ったら一大事だと考えてのことである。したがって、執行停止は当然の義務の履行であり、死刑囚にとっては受けるべき当然の権利であって、感謝すべきことでも、『お前のせいだ』と言われる筋合のことでも全くない。

そして残る所は、死刑の執行をさしひかえたのなら、なぜ公式に死刑執行停止措置をとって死刑囚を死の恐怖から解放することをしないで、実に二八年間も、現実にはありもしなかった死の恐怖でさいなみ続けたのかという疑問、否、義憤のみである。

そのように詐欺的な陵虐行為を長年やっておいて、しかもその挙句に死刑を執行したとて、何ら残虐でも非人道的でもないと公言して憚らないで、ぬけぬけとそれを人道的配慮の結果だと言う。悪魔も聞けば腰を抜かすだろう。

しかし、いくら何でも、わが法務当局者が悪魔の集団であるはずはないから、人道的配慮とは苦しまぎれの弁解で、本当の所は、巷間伝えられている通り、再審中だろうと何だろうとすぐにも死刑の執行をしたくて、検察官は法務大臣に何度も執行命令にハンコを押すよう求めたのだが、歴代法務大臣が無実と思ったか、少なくとも有罪に確信が持てなかったために、さらに『平沢さんは無実だ』『平沢さんを救え』という澎湃たる世論に気がねして、ハンコを押し渋った結果、三〇年間、目的を遂げることができなかったのである。しかしそうであるなら、歴代法務大臣は、はっきり『俺には執行命令は出せない』と告げ、もしその時再審請求がなされていたならば、公式に執行停止措置をとらせるべきであった。そうしないで曖昧にハンコ押しを引き延ばし順ぐりに後任者にいわばババを押しつけて来た結果、三〇年間平沢氏を死刑執行の幻影に怯えさせ続けた罪は、客観的には前述のような悪魔の所業と何ら異る所がない。

但しただ一つ、完全にというわけには行かないが、ある程度までこの所業に弁明の余地を与えうる法律的手段が残されている。死刑の時効、これである。

法務当局が公式に死刑の執行を停止すれば、その間死刑囚は枕を高くして眠ることができた代りに、時効が進行しなくなるので、その場合は平沢氏のように二八年間も再審請求をくり返せば一生時効の恩恵に浴しえない。

これに対して、平沢氏に対して現実にやったように、執行停止を内々にとどめて公式では行なわず、二八年間も実際にはありもしなかった死の恐怖で死刑囚をさいなみ続けた場合には、その間休みなく時効が進行し、三〇年たった所で恐怖の代償として完成に達し、死刑囚を釈放しなければならなくなる。

こういうことにしておけば、詐欺的迫害の不法が完全に治癒されるわけではないが、結果から見て、ひとまず、ある程度まで衡平の原則にかなっていると言うことができる。古えの立法者の智慧は大したものであって起りうる迫害の錘(おもり)を時効の錘(おもり)によって釣り合わせ、被迫害者に禍を転じて福となす道を開いておいてくれたのである。

ああ、それを何ぞや。今の世の法務当局者と裁判所とはグルになって『死刑囚に刑の時効は進行せず』と強弁することによってこの道を閉ざし、その上、時効にかからぬ以上殺すぞ、殺すぞと脅し続けた挙句に『本当に死刑を執行したとしても何ら違法でも非人道的でもない』と公言したのである。悪魔に残された最後の一片の良心までかなぐり捨て、悪そのものの化身たる大魔王に変身してしまったのである。

かくて、いかなる面から見ても、死刑囚に時効の進行を認めず、しかも再審請求が提出された場合に、根拠ある請求なると否とにかかわらず、死刑の執行停止を行なわないで死刑囚を死の恐怖によってさいなみ続けること、そしてその挙句に死刑を執行することが、違法でもなく、又憲法三一条違反でもないことを、正当化する論理は、ありえない。

その上それは、憲法一四条の法の下の平等にも反する。なぜなら、再審請求に相当の根拠があっても死刑の執行を停止するかしないかは検察官の胸一つで、しかもいずれの場合も時効は進行しないということは、くり返される再審請求中、ある死刑囚は死刑の執行を停止してもらって安心して何十年を過し、ある死刑囚は来る日も来る日も『今日は死刑か、今日こそ殺されるか』と恐怖におののきながら何十年を暮らすという、恐るべき法の下の不平等が、後者の死刑囚の時効完成・釈放によって治癒ないし緩和されるチャンスを全く持たないということであるから。

以上により、最一小決の理由一は、徹底的に粉砕された。どんなに助け船を出そうと試みても、これを救うことはできない。」

五 この点につきさらに原判決は、つぎのように言う(原判決一六枚表)。

「被控訴人が控訴人に対し死刑を執行する意思がないとはいえないのであるから、控訴人に対する身柄の拘禁は、刑法一一条二項に基づくものであって憲法三一条に違反するものではない」と。

六 しかし、これは事実の曲解である。

すなわち、昭和六〇年四月三日の参議院法務委員会会議録(<書証番号略>)七頁四段にいわく。

「飯田忠雄議員 法務大臣としては従来のような方式をおとりになって、強いて平沢に死刑の執行命令をお出しになるということ お気持ちはないと受け取ってよろしゅうございますか。

法務大臣 結論から申しますと、御指摘のようなことであろうというふうに思っておるわけでございます」

したがって、原判決のこの部分は、採証法則と言う法令に違背したもので、かつその違背は判決の結論に影響及ぼすことの明らかなものと言わねばならない。

第六点 原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな刑法三一条・三二条・三三条・三四条という法令の違背がある。

一 すなわち、刑法三二条に言う「時効ハ刑ノ言渡確定シタル後三十年ノ期間内其執行ヲ受ケサルニ因リ完成ス」という規定や、同法三三条の「時効ハ法令ニ依リ執行ヲ猶予シ又ハ之ヲ停止シタル期間内ハ進行セス」という規定や、同法三四条一項の「時効ハ刑ノ執行ニ付キ犯人ヲ逮捕シタルニ因リ之ヲ中断ス」という規定を統一的に読めば、刑の執行、すなわち国家刑罰権の行使というものは、その権利の行使をしようと思えばできるのにしなかった場合は刑の時効が進行するが、その行使をしようとしてもできない場合には刑の時効が進行しないということになる。すなわち、「消滅時効ハ権利ヲ行使スルコトヲ得ル時ヨリ進行ス」という民法一六六条に示された時効の本質は、刑の時効にもひとしく貫徹されるということである。

ところで、拘置されている死刑囚にたいしては、執行停止決定がなされない限り、再審請求中でも(刑訴法四四二条本文)、恩赦出願中でも、つねに国家権力は死刑の執行をすることができるのである。

そうだとすれば、「刑の時効は、死刑という国家刑罰権ヲ行使スルコトヲ得ル時、すなわち昭和三〇年五月七日より進行す」ということに、どうしてもなるはずである。

二 この点につき原判決は言う(同一七枚うら)。

「しかし、原判決別紙①②に記載された事実は当事者間に争いがないのであるから、被控訴人が控訴人に対し三〇年間死刑を執行しなかったことをもって、ただちに国家に懈怠があり、権利の上に眠り、また所論の権利を失うといういわれはなく、控訴人の右主張はその前提を欠き理由がない」と。

三 原判決添付①②に記載された事実とは、言うまでもなく、上告人が再審を一七回請求し、恩赦を五回出願したということである。

しかし、何度も言うように、「再審の請求は、刑の執行を停止する効力を有しない」(刑訴法四四二条本文)のであり、恩赦の場合はその出願自体、憲法七三条七号による内閣の職権発動を促すためだけのものであるから(恩赦法一二条、同法施行規則一条、一条の二参照)、執行停止の効力などあるはずがない。

つまり、再審を何百回請求されようが、恩赦を何百回出願されようが、やはり法務大臣は死刑執行という国家刑罰権を行使することができるのである。

四 そして上告人が言っているのは、これまで三二年間、国家権力が上告人を殺さなかったのが、「国家の懈怠」であるとか、「国家が権利の上に眠っていたため」であるなどという見当ちがいのことではなしに、国家が懈怠していようがいるまいが、国家が権力の上に眠っていようがいるまいが、要するに三〇年以上、死刑執行権を行使することができたのにそれを行使しなかったから、死刑の時効が完成してしまったということなのである。

第七点 最近の学説<省略>

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